あのねの食卓

言葉と表現の練習炒め、明日の希望添え。

困っても笑っておけよね。


急に自分の中ではかなりシビアな問題が現れました。

オカネの問題です。フワーオ!

ア!自分は何か勧誘をしたり何かに入っていたり、友人家族やキケンな所から借りたり、あと何か思いつかないけどアブナイコトには手を出していません!

その手の候補がそんなにあがらないような人生歩んでたんですね。

もう返しましたが学生時代に旅費を親御さんから借りて海外へ行ったのはいい思い出です。

若い時でないとやっぱ感じられない素晴らしさってのがあると思うので、行っといた方がいいと思います。旅行でも芸術鑑賞でも。


自分は最近、職場を変えたのですがそれに伴い給料が…前のところに比べかなり減るみたいで困ったモンだなあと思っていた次第です。

どうしよう。なんでこうこの手の話になるとすごくシビアな感じになってしまうのだろう。

それよりも今までと同じ生活してたら本当にどこかから借りなくてはならなくなってしまうぞ。

それはイカーン!それだけはイカンイカン!

気付いたらこのブログ、節約についての話ばかりになってしまうかもしれない。

それは避けたいなあ。


前のところはかなり忙しくドタバタで労働時間も長かったんですが、そのぶん良かったんですよね、潤ってました、懐。

でもそこ、自分としては繋ぎとして入ってずっと続けるつもりなかったんですよね。

身体的疲労はすごかったんですけど、馴染めて楽しくやっていたし懐も潤わすことできたし。

毎日が夏休みみたいなところでしたね。

本当に夏休みみたいで、楽しくて楽しくて仕方ないけど、終わりがあるのを知っていて、ちょっと目を逸らしていた宿題がちらつくし、ハードだけどこんなけ懐潤わせて休みも比較的取りやすくて甘い蜜吸っていられるなんて…ハッピーかよ…みたいなところでした。


今のところは、自分が非常に興味のある分野に関係するところだし、労働時間もライトだし、労力的にも優しいしで入って後悔はないんですけど、いかんせんアレがスッカスカで〜!


夏休みのような職場にいた当時、先輩が目標のために辞めていったんですけど、最近戻ってきたみたいです。

金銭面が厳しくなったのが理由だそうで、やっぱりそれだけ潤わすことができるんですよ〜!

でもそれ、働いてる間に甘い蜜吸いすぎて他行ったから禁断症状出てしまっただけなのでは〜!?!?と思いました。

夏休みの間にちらついていたやらなくてはならない宿題ってのが、他へ行った時に変化する(多分大体減る方向)給料問題でした。

クゥ〜!私は屈しないぞ〜!!


数年前に毎日睡眠時間0〜2hで毎日プレッシャーガンガンの息苦しい、家族から「トイレットペーパーで綱渡りしてるみたいだね」と言われていた自分の中の一番のドン底時代があるんですが、あの時に思いっきり体調壊して、もう今後の人生に関わるレベルの壊し方して以来優しくなろうと思ったので、やっぱり無理はしたくないんですけど、若さに任せてガムシャラに働きて〜!

今の自分ならあのドン底時代をもっと上手く生きられたのかなあと思うこともあるんですが、当時の私はいっぱいいっぱいやったと思うし戻りたくないしで、あの頃を思うと複雑な気持ちになるんですがそれは置いておきます。

それより今の目の前の問題です。


特に今まで家計簿とかつけたことなかったしものすごいどんぶり勘定で過ごしてたんですけど、始めようと思いました。死活問題ですよ。

自分の収入と、必要な支出と、自分が楽しく生きるために必要な支出と、貯蓄を考えて、色々計画を細かく立てていかなくてはならないなあと思ったんですが、なんだか会社の経営みたいで楽しいですね。楽しくなってきました。

会社の経営はそんなに甘くはないと思うんですけどね。モノはたとえです。


やっぱり最後は、お金がなくても楽しく過ごしていきたいなあと思うわけでございました。


ついでに生活も見直したいのでこんな時間まで起きているの、やめようね。


一部例外がある曖昧な世界について。


自分は文章を書くということが非常に苦手である。

文章というか、小論文とか論文とかそういった自己の考えをビシッバシッと書くのが、苦手である。

ウーン困ったな〜と思い、でもきっともう論文など書く機会もないだろうけど苦手なままではなんだか嫌だから、練習がてらブログを始めさせていただきました。

それでもやっぱり自分の考えをはっきりビシッとバシッと書けずフラフラと曖昧に、海に漂うクラゲや海藻みたいにぼんやりとした文章を書いてしまうのだろうけれど、まずぼんやりとした自分の考えを文章にできることが、大事だと思って頑張りたいと思います。


自分はとあるショップの店員をしています。販売員ですね。

どちらかといえば人が来るところで、しかも商品を手にとっているお客様に対して話しかけることも仕事の内容に含まれている、販売員。

自分は人と話すことはどちらかというと、あまり得意じゃないし、多分好きでもない。

それでも商品を手にとっているお客様に対して話しかけてみる、がしかしペラペラ〜ッと話しかけた途端に商品を置かれる。結構な頻度で置かれる。それか「アッハイ」と言われ避けられる。

その気持ちすごーーーくわかるから(自分も、自分が店員になる前までは店員さんが来ると身構えてしまう方だったのだ!)お客様に対しては特に思うことないけれど、ショックは受ける。買ってほしいわけじゃなくて、仕事なんです〜!という気持ち。自分の話しかけ方も悪かったかなあとも思うし。それは置いておいて。

(好きでもないのになんでこんな職を選んだかは、いつか書きたい。)

でも全員が全員、サーッと逃げて行くわけじゃない。話だけでも聞いてくれる方もいる。時には話を聞いて買ってくれる方もいる。自分は出来る限り押し売りにならないよう、注意を払って言葉を選ぶ。

自分だって店員さんに話しかけられると焦るしビビる。避けるように商品を見て行くことがある。多分、ほとんどの人が苦手なのではないのだろうか。

ツイッターでも見かける。アパレルで話しかけられるのが苦手といった内容。わかる。わかるぞ。

大衆の、過半数の意見なのかなと思う。

でもそれには、話しかけられるのが苦手というのが全てかと言ったら、ちょっとそれは違うんじゃないかー!と思ってしまう。

例題がなんだかおかしいな。もっといい例題があればいいんだけれど。

たまたまこれを話題に出しただけで別にこれに限ったことではない。大体の物事には一部例外があるのだと思う。そして、この一部例外というのがとても大切な場所だとも考えている。


一部例外を除くという言葉は、非常に便利な言葉だと思っている。

はっきり断定することが危険な場合、逃げ道を作れる言葉だ。一部例外がある。そして大体の物事には一部例外がつきまとうのではないか。何事だって、どんな小さな事だってピタリと当てはまるようなことは滅多にないのでは?とも考える。世の中一部例外だらけだと思っています。

世の中というのはそう簡単に割り切れず、複雑に重なり合っているのでは?

商品の説明をするときだって、結構曖昧にしたり濁したりする。申し訳ないけど、大切なことなのだ。生きてる中ではっきり言い切れることって少ない気がする。自分の考えですら明日には変わっていること、あるある。

きっと自分がこうだ!と決めつけている物事や、固定概念になりかけていることにも、きっと多分一部例外というものがある。

その一部例外があるということを知ること、認めることで優しい世界で生きる一歩なのではないかな〜とたゆたうクラゲのようにひらりと思う。

でも、その一部例外に甘えて頼ってはいけない。あくまで、大衆の一般論があって、それがきっと世の中では正しい物事だけど、でもそれとは違う少数派の一部例外が存在するんだよな〜、その一部例外があってもいいんだよな〜、大衆の意見とは違うけど。とぐらぐらヤジロベエのように考えることが自分の世界を優しく輝かせてくれる気がする。

ぐらぐらヤジロベエにならずとも、どちらかに偏りすぎてバランスを崩してはいけない。


一部例外がある曖昧な世界のその絶妙な美しい均衡の中で、それを保ちながら生きていけたら、世界はもう少し優しく、生きやすくなるのではないかと思う。

そして、摩擦が起きるあの人や、鼻に付くあの人の言動や思考を自分の世界の一部例外だと思えば、もっと穏やかな日常の中で過ごせるのではないかと思う。それは多分他人を認めるとか受け入れるとか、そういうこと。受け入れなくてもいい。知るということが大切だ。

例えば自分の選んだことが一般大衆と違かったとしても、それを世の中の一部例外だと己で認めることが出来れば、少しばかり勇気になるんじゃないかなあ。

でもやっぱり、一部例外じゃーい!なんぼのもんじゃーい!と、こう、大っぴらにぶちまけては、よくない。

なんというか品がない。

あくまで、ぐらぐらヤジロベエ。絶妙で美しい、不安定なのに崩れない均衡のなかで、考え続けていくことが、大切なのではないかと思う。


何が言いたいかって、偏った考えはよくないよ、ということ。何かの物事を100%信じ込むのは危険だよということ。自分は20歳すぎて、やっと身を持って学んだ。


そしてこれらの話も所詮、一部例外がある話なのだ。